もししからば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆にあらざることなければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。 歎異抄と検索するだけでたくらんの解説書が出てきますが、中には誤ったものが多いのも「歎異抄」の特徴です。 和讃にいわく、 「金剛堅固の信心の、 さだまるときをまちえてぞ、 弥陀の心光摂護して、 ながく生死をへだてける」 とは候えば、信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず。
8そんな煩悩の塊で救われようのない悪人が、そのまま本当の幸せになれるのが仏教ですから、 悪人正機とは、すべての人が本当の幸せになれるということです。
なぜなら、すべての人は、欲や怒りや愚痴のでできているからです。
そこで今回、親鸞聖人が説き明かされた仏教の真髄の秘密を 「あなたが一生苦しまねばならない本当の原因とその解決」 として、分かりやすい小冊子にまとめました。
(岐阜県 73歳・男性・農業) 文字が大きく分かりやすい。 一切の事に、あしたゆふべに回心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。
16【意訳】 ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。
ほんとうの信心とは、どういうものか。
一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。
それは親鸞とか歎異抄という名前を人びとに知らせるのに大きな役割を果たした本ですが、この倉田百三という人は、いろいろな苦しい精神的な遍歴をたどった人でありまして、社会主義に傾倒もしたし、キリスト教の信仰も求めた。 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。 その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。
6露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。
しかし親鸞聖人ほどひんぱんに自名を名のられることはなかったようです。
もちろん人生の問題には、学校の勉強と違うので、正しいかどうかよく分からないものもたくさんありますが、少なくとも浄土真宗の学者が親鸞聖人の教えと違うことを言っていたら、それは間違いですよね。
【1】限りない願いの世界 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 やがて私たちから離れて行く時がきます。
8踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。
「すべての人を救う」という、阿弥陀仏の不思議なお約束に助けられ、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身となって、お礼の念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです。
。 『歎異抄』が広範な読者に迎えられたせいなのか、聖人は日本で最も有名な、歴史上の人物といわれるようにもなった。
解説はこちら 第4章 現代語訳 慈悲といっても2つある 第四章 原文 現代語訳 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。
その他の四行は、称名するところに、 自然につきしたがっていく行ですので称名の助業であるといわれました。
これに、唯円が覚如に親鸞の教えを教授したこと、覚如によると思われる『口伝抄』に『歎異抄』と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている。
20ことに最後に、 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし、このうえは、 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。
(埼玉県 63歳・女性) 何冊もの『歎異抄』についての本を買って読みましたが、納得できないままの消化不良でした。
今では『 歎異抄』に登場する親鸞聖人の高弟、が書いたのではないかと言われていますが、もしそうだとしても、唯円は、何らかの理由で、自分の名前を書き残さなかったのです。