祖母は私を抱きしめ、「みんな戦争が悪いんだ。 「みんなね、8月15日に負けて終わりました、気持ちが自由になったっていうけれど、あたしなんかそんなの全然なかった。 「日本中が大変なのだからできることをやりましょう」と言い、当時13歳だった裕さんらを連れて上野駅に通った。
15しかし、「本当の母だと思っていた」伯母も被爆のため翌年に死去。
第二次世界大戦による保護者不在の問題は、まで続いていた可能性がある。
国に対して、空襲の被害者への謝罪と補償を求める活動に寄付をするためだ。
3月10日の東京大空襲によって、東京の下町は焼け野原となってしまった。
カメちゃんを亡くし、自暴自棄になっていた小倉さん。
他の収容施設でもそうだった。
しかし、小倉さんはここでも、職員に反抗的な態度をとり続けていた。 つまり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きしていたことになる。
19その数は12万人を超えた。
飢えに苦しみながら路上生活を続けていた小倉さんは、ある日の深夜、強烈な頭痛に襲われた。
戦争孤児の会代表、金田茉莉さん 戦争で親を奪われた戦争孤児は、戦後史の闇に埋もれた存在だ。
「なんでお前は生まれてきた、なんでわしらがお前を見なきゃならんのだ、しょっちゅう言われて。 銭湯だ。
そこに集積していた、進駐軍の食料などが目当てだった。
<沖縄戦>瓦礫と化した街 叫び声を上げて後ずさりし、我に返ると、今度はおぶっていた1歳の妹が冷たくなっていました。
私を人(菅谷みさをさん)に託していなければ一緒に焼死していたのですが、実母の一瞬の、機転でこの歳まで生きながらえたことが、実母が生きていた証しなのだと自分に言い聞かせています。
このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されている(「朝日年鑑」1947年)。 12年間過ごす そうした広島にあって育成所は、新聞・雑誌やラジオの報道を通じて全国的に注目されるようになる。
9東京にいた父が体調を崩し入院するというので、母も赤ん坊をおぶって上京していたというのだ。
「その3割近くは先輩の教唆で窃盗、スリと悪の道へ踏み込」んでいた。
探しても分からないはずでした。
谷村左官という小さな会社を起こして高知に戻り、愚直にただひたすら真面目に働いてきた。
耐えきれずに家出して浮浪児になると、親に捨てられた非行少年、バイ菌、貧民窟の子とレッテルを貼られました。
これは、戦争を記憶する世代が、 最も若くても70代後半となっていることを意味する。
そして、生きるために、盗みを働くようになった。